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美味しくないけど幸福な旅の味
旅行に行った先で、どの料理も味がいまいちな観光地の料亭に入ったことがある。著名人のサインだらけで、店内も満員、入った瞬間は期待感で一杯だったんだけど、来る料理来る料理、味がほんとうにいまいち。ただ満員の店内で美味しくないと口に出すわけにもいかず、最初は静かに食べていたんだけど、そのうち、美味しくない料理を、満員の店内でみんなが静かにたべている状況が、たまらなくおかしくなってきてしまい、一人で笑いを必死でこらえてた。ふと家族をみると、なぜかみんな笑いをこらえた顔をしている。弟がついに笑い出してしまったのを皮切りに、家族でたくさん笑ったのを覚えている。美味しくないのにとても幸せだった食事は、最初で最後だった。雪が降っている海辺の風景もよく覚えている。
おいしい思い出 さん
禁断のワード、広島焼き
上京してはや10年、地元の広島へ帰省したときに必ず食べるのは「お好み焼き」。たっぷりキャベツと麺の上に様々な具や卵、生地が載り、ジュウジュウと熱々の鉄板から、皿は使わずヘラで直接食べるのが広島流。 東京に出てきて気がついたのは、この紛れもない「お好み焼き」を、東京では「広島焼き」「広島風お好み焼き」と呼ぶのが一般的だということだ。 広島の人たちはお好み焼きを、「関東風」でも「関西風」でもなく、紛れもなく自分たちが元祖「お好み焼き」だと誇りに思っており、「広島焼き」という呼び名は広島県内で見たことも聞いたこともないので、受け入れることができない。 「『広島焼き』なんてものは存在せんよ。」「広島風~ならギリギリ許してやらんこともなぁけど、、あれは『お好み焼き』じゃけぇ。。」 そんな私は、東京に出てきて以来、折に触れて都会の人々に、お好み焼きの真実を伝えている。これは『お好み焼き』ですよ!と。 ちなみに広島のライブハウスには、県外からきたミュージシャンがウッカリ禁断のワードを口にしないよう、「MCで『広島焼き』と言うのはやめてください」と張り紙がしてあるらしい。 広島に行くときは、うっかり口を滑らせぬようご注意を。
瀬戸の花婿 さん
思い出の夜ご飯
自分は中学2年生の吹奏楽部なのですが中学1年生の時コンクールに疲れしかも銅賞(吹部の中では最下位みたいなもの)で最悪な気分で帰り不機嫌なまま寝てしまいました。翌日は土曜日だったのですが朝早い両親は仕事へ姉2人は部活へ自分一人家に残りました。そして机の上に書置きがあり見てみると昨日の夜ご飯入っとるし食べといてと書いてありました。見ると自分が大好きなチャーハン。それも自分好みの味になっていました。まだ感謝を伝えられていません。
あいす さん
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妻とはじめて喧嘩した青春のフグ刺し
九州と本州を結ぶ関門橋がある街、下関市。そこにぼくは生まれ育ち、今年からまた、ここで働いている。高校までずっと地元で過ごしてきた僕は、大学進学を機に山口市内の大学に進んだ。教員採用試験に受かってこの春、4年ぶりにこの現地の学校に帰ってきて教師になった僕は、週末になるといつも関門海峡が見える市場に出かける。海を眺めながらイキのいい海鮮を食べる。その中でもやはり、フグは僕に取っては避けられない、小さい頃から慣れ親しんだ味だ。どんな店で食べるご飯よりも、ここで食べるフグ刺しに勝るものはない。大学時代、男らしさを見せるために広島出身の彼女を地元に連れてきて、ふぐ差しを箸で一気にすくって豪快に一口で食べたらドン引きされ、大げんかしたことがあった。それも淡く切ない青春の思い出だ。当時と同じように、市場で買ってきたフグを箸で一気にすくう。口いっぱいに頬張り、幸せを噛み締める。その隣には、大学時代と変わらない笑顔と、太陽に反射した金属のリングが光って見えた。もうすぐ僕は結婚する。結婚してからも、子どもができてからも、僕は当時と変わらないこの味を、大好きな地元で、大好きな家族と一緒に味わうだろう。
たっき〜 さん
徳島で食べた大きい金時豆の入ったお好み焼き
10年ほど前。阿波踊りで訪れた徳島。その日仕事で初めて会った、二回りくらい年上の気怠い感じのおじさん2人。見物の合間に「ちょっと休みますか」と連れていかれたのは街中の鉄板屋らしきお店だった。当然のように出てきた銀色のカップにはお好み焼きの具材が入っているようだが何だか様子が違う。赤茶色の大きい豆が入っているのだ。これなんですか?と聞く間もなくビールが出てきて乾杯!となり、これまたあっという間にお好み焼き「風」のものが焼きあがって、どうぞ、とすすめられるままに口にしたら…これがうまかった。後に知ったが豆玉と言うご当地メニューで、豆は甘く煮た金時豆。2人のおじさんのことは顔も名前も忘れてしまったが、甘じょっぱい徳島のお好み焼きは記憶に刻まれている。もうすぐ今年も8月、阿波踊りの季節だ。行こうかな、徳島へ。
ケイン さん
フィリピンで死にかけて食べたご飯
フィリピンの離島に行った時のこと。離島からカヤックを漕いで他の島を探検していた。 しかし奥に入り込みすぎて、あたりが次第に暗くなってきた。 頑張って漕いで、急いだけど、真っ暗になってしまい、どこから来たのかもわからなくなってしまった。 波で転覆しそうになりながら、灯台の光だけを頼りに何とか陸まで帰ってきた。 宿に買えると、心配した友達が迎えてくれて、温かいフィリピンの地元のご飯を食べた。 食べているうちに、緊張感がとけた。
ボーダーレス さん
真冬のニューヨークとピザ
ある年の大晦日、ニューヨークへ弾丸で一人旅をした。 その年は記録的な大寒波が到来、空港に到着するなり、耳や頭が冷えて、だんだんと具合が悪くなるほどに寒かった。 英語もろくに喋れないのに、無謀にも1人で海外旅行に挑戦してみたが、寒さと言葉の通じない心細さで、初日から心が折れて、早く帰りたい気持ちになってしまった。 お店の注文も不安だったので、宿泊先のホテル近くの小さなピザ屋で何とか安いピザとコーラを頼み、空腹を満たした。せっかくニューヨークまで来たのに、安いピザとコーラしか食べられない自分に情けなくなりながら、その日は眠りについた。それでも1-2日ほど過ごしたら、次第にフッキレたのか、言葉が通じないことにもめげず、色々なお店に行ったり、観光地に行ったり、旅行を楽しむことができた。年越しの瞬間は、地元の人たちが集まるレストランで、テレビに映るタイムズスクエアのカウントダウンを見ながら知らない人たちとシャンパンで乾杯していた。 今でも時々、テレビで真冬のニューヨークを見ると、あの時のピザとコーラを思い出す。
mukamuka さん
母の誕生日、ココナッツパンにロールキャベツ
母は日本語を日本人と同じくらい上手に話すが、異国の出身で、出身地の料理が日本にないことをいつも嘆いていた。そのうちのひとつがココナッツパンだった。母の誕生日に、私が「誕生日は何が欲しい?」と聞くと、いつも「ココナッツのパンが食べたい」と答えていた。まだ幼かった私は、ココナッツパンなんて食べたことも無く、ネットで調べても日本語のレシピは見当たらなかった。その代わりに、私の大好物であるロールキャベツを母の誕生日に作って一緒に食べていた。そして、ついに私が15歳、高校一年生のとき、母の誕生日にココナッツのパンを作ってあげようと思い立った。ネットで調べても、日本語で書かれたレシピは見つからなかった。そこで、私は異言語で書かれたレシピを翻訳サイトを使ってちまちま翻訳しながらココナッツパンを焼いた。焼き上がりは自分が見てもなかなか上出来だったと思う。その夜、仕事から帰ってきた母は私の焼いたココナッツのパンを少し涙ぐみながら美味しそうに食べた。「この味だよ、𓏸𓏸(私の名前)これがずっと食べたかったの、本当に美味しいよ」と私を抱きしめた。父の分も含めて多めに焼いたつもりだったが、母は1人で2人分も食べた。母に褒められて嬉しかったのもあって、それから毎年母の誕生日にはココナッツパンとロールキャベツを作って誕生日を祝っている。今でこそもう慣れたココナッツパン作りは、当時の私にとっては大冒険だったことを覚えている。
くろすけ さん