episode

みんなから集まったごはんの思い出

投稿エピソード一覧

全161作品

産後の体にじわーっと染み渡るお吸い物

無痛分娩だっため、陣痛が来た24時頃から絶飲食。朝に出産したため、朝食は間に合わず、初の食事は昼食でした。ちらし寿司、はまぐりのお吸い物、海老と野菜の天ぷら盛り合わせ、茶碗蒸し、桜餅、ひなあられなど。半日ぶりの食事は、本当に美味しかったです。特に、ハマグリのお吸い物は優しい味で産後の体にじわーっと染み渡りました。そして何より、麻酔が切れて全身が痛いのに「美味しい!」と完食した自分の生命力に驚きました。食べることは生きる事だなとしみじみと感じました。

うさぎ さん

ばあちゃんのチキンライス

父子家庭の我が家の料理担当は、料理が苦手なばあちゃん。焼き魚は焼きすぎてパサパサ、天ぷらはふかふか。和食ばっかりで子どもの私は文句ばっかり。今思い返すと料理上手だった母と比べて、さみしくて、八つ当たりしてたと思う。 ある晩にばあちゃんが作った「チキンライス」は、白いご飯にカレーみたいなルーがかかってた。カレー粉じゃなくてケチャップで味付けした、オレンジ色のルー。 こんなんチキンライスじゃない!って怒ったけど、これが意外と悪くない。鶏肉と野菜がくたくたに溶けて甘くておいしい。 わたしがおいしいって言ったら茶碗蒸しが2週間続いたこともあった。インフルエンザになったとき、よかれと思ってすき焼きが出てきたこともあった。 料理苦手なばあちゃんが、子どもが喜ぶようにって作ってくれたのが、今はわかる。また食べたいけど、ばあちゃんは他界して、あのチキンライスは再現できない。 悪態ついて、作ってもらうありがたみがわかってなくて、本当にごめんなさい。感謝して食べるから、またつくって欲しいです。

トゲトゲだったわたし さん

  • 家族とのごはん

おばあちゃんのコロッケ

実家はおばあちゃんと同居でした。外で働く母に代わって、兄妹のお世話は自営業だったおばあちゃん担当。平日は夕飯はおばあちゃんが作るので、小学生の頃には姉と一緒にお手伝いをします。その中でも大好きなお手伝いはコロッケ。大量のジャガイモを茹でたら私たちの出番です。熱々のジャガイモを剥きますが、時々マヨネーズをかけてつまみ食い。つまみ食いをするのも考慮してたくさん茹でてくれます。その時間がとても楽しくて夕飯がコロッケのときはとても嬉しかったです。おばあちゃんのコロッケはちょっと甘めで、大人になった今も私の作るコロッケは同じ味付けです。

しゃけ さん

  • 家族とのごはん

おじいちゃんのもつ煮込み

母方のおばあちゃんの家は、我が家から道を挟んだ向かい側にある。 誕生日やクリスマス、お正月や節分、お盆にお彼岸……もちろん、なんでもない日も気軽に遊びに行ってたけど、なにかイベントがある時は、家族みんなでおばあちゃんの家に集まった。 特別な日におばあちゃん家に行った時は、決まっておじいちゃんがもつ煮込みを作ってくれた。大鍋2つ分。1つはみんなで食べる夜ご飯用。もう1つは、私達が家で食べる用。うちは3人姉弟5人家族だから、帰りにお土産として、その大きなお鍋ごともつ煮込みを持たせてくれる。 みんな、おじいちゃんの作るもつ煮込みが大好きだった。 私が小学校の頃、おじいちゃんは病気で寝たきりになってしまった。そして高校生の時に亡くなった。 おじいちゃんは料理上手だった。いろんな美味しいものを沢山食べさせてくれた。でも、一番思い出に残っているのは、大鍋いっぱいのもつ煮込みだった。 おじいちゃんが亡くなった後、おばあちゃんやお母さんがもつ煮込みを作ってくれた。だけど、すごく美味しかったんだけど、「やっぱりおじいちゃんのとは味が少し違うね」っておばあちゃんもお母さんも笑ってた。 何年も経って、大人になった私達姉弟は、就職をして家を出て。そしてお正月に帰省して。久々に家族5人揃ったからと、みんなで初詣に行った。 車で少し遠出して、少し大きな神社へ。お昼過ぎだったから、人もそこまで多くはなかった。 お参りをして、おみくじを引いて、お守りを買って。立ち並ぶ屋台を見て、お家でお留守番しているおばあちゃんにお土産を買って行こうという話になり。 大判焼きと煮イカを買って、駐車場に戻ろうとすると、ぽつんと一軒の屋台が目に入った。色鮮やかな暖簾には『もつ煮込み』の文字。 境内の屋台列から外れたこんな人気の無い所に一軒だけあるのも不思議に思ったし、もつ煮込みの屋台なんてあるんだ〜なんて、そんなことを思いながら通り過ぎようと思って。 でも美味しそうな匂いに惹かれて。汁物で持ち帰れないから、その場でみんなで分け合おうということになり、1杯だけ買った。 そのもつ煮込みは、おじいちゃんのもつ煮込みと同じ味がした。 屋台の店主も全然知らない人だし、きっと本当に偶然だったのだと思うのだけれど、家族みんな口を揃えて「これはおじいちゃんの味!」と同じ感想を抱いていて。 おばあちゃんに食べさせてあげられなかったのはすごく残念だったけど、その年のお正月は、おじいちゃんも含めてみんな居たように感じられて、とてもあたたかい気持ちになった。

そば子 さん

  • 家族とのごはん

恋人と塩パン

彼と同棲していた家から20分くらい川沿いの道を歩くと辿り着くところに、美味しいパン屋さんがありました。膨らんだ体で、パンづくりなら任せとけ、とでもいうような表情のパン職人のイラストを掲げたパン屋さんで、素朴すぎずお洒落すぎない佇まい。散歩がてらそのパン屋さんに行き、買いたての中からひとつだけパンを取り出して、食べながらまた家に帰るのが好きでした。私はそのお店の、クーベルチュールチョコを使ったようなショコラ系のパンや、生ハムと大葉のサンドイッチが好きだったのですが、彼はシンプルなパンを好んでいて、いつもトレーに並んだパンはくっきり「私のもの」「彼のもの」がわかりやすいくらいでした。中でも彼は塩パンが好きで、私は「塩パン〜〜〜?!?こんなにたくさんリッチなパンがあるのに!」と常々思っていたのですが、ある日、「焼きたてですよ〜」と塩パンが運ばれてきました。普段は表情を顔に出さない彼が嬉しそうにするので、つい私の分もトレーにのせて、お店を出てすぐにふたりでガブッ。すると、焼きたてのパンにじゅわっとほどける塩みがあまりに美味しくて、「なにこれ?!」と感激しました。毎回のように塩パンを食べていた彼に言わせても、その焼きたて塩パンは特別に美味しかったそうで、二人で、塩パンを褒めちぎりながら帰りました。塩パンの美味しさは、彼と一緒にいないと知らないものだったな〜と思います。

あひる さん

  • 恋人とのごはん

ナイフとフォークの使い方

大学生になって、地方から東京に出てきた僕は、東京に馴染むために頑張った。標準語を身につけたし、サークル活動も頑張った。でも、一個だけ大きな失敗をして、ずっと心のどこかに刺さっていたことがある。同じ大学で初めて彼女ができた僕は、明らかに洗練された所作を見せる彼女に引け目を感じていた。ずっと彼女についていこうと気張っていた僕の心が折れたのが食事のとき。頑張ってお金を稼ぎ、いい店でステーキを一緒に食べた。すると彼女が言う。「ナイフとフォーク、こうやって持つんだよ」 何気ない一言だったが自分が田舎者だと言われた気がしてショックだった。それから別れを切り出して、10年彼女がいなかった。ナイフとフォークを使う食事に行く機会もなかった。社会に出て数年経ち、久しぶりに彼女ができた。仕事で会い、同郷ということで話が盛り上がったのだ。いい店を予約して、食事をすることになった。10年ぶりのナイフとフォーク。意識はしていたものの、付け焼き刃だから持ち方はたぶん10年前とそんなに変わっていない。バレバレだった。でもそのぎこちない食器の使い方をみて、彼女は自分の食べ方を見せた。僕とそっくりだった。「安心した。テーブルマナーとか教わったことないからわからないよね。」背伸びして付き合うよりも、自然体の自分を好きでいてくれる彼女と、もう少ししたら僕は結婚するだろう。

ライトニング さん

  • 恋人とのごはん

病室のティラミス

持病のある夫は夏ごろから体調を崩し、食べることが徐々に困難になり寝床から起き上がれなくなった。まだ大丈夫だからと枯れた声で言うのを無視して、とりあえずかかりつけ医へ行こうと車を出す。車椅子を借り、ひょろんとした背中を見ながら診察室へ向かうと、様子を見た看護婦さんは足早に先生を呼んでくれた。案の定、即入院である。 しばらくは絶食生活を送ることとなり、まだ2歳の娘を母に預けて私は毎日見舞いに訪れた。幸い話はできたので回復具合を聞き、順調であることが分かり安堵する。 少しずつ食べられるものが増え、院内を自力で歩けるくらいになった頃、久しぶりに夫がよく見たことがある表情になっていた。用意したプレゼントを相手にあげる時のニヤついたアレである。しかし入院中の患者には似合わないし、私の勘違いかと不可思議な思いで洗濯物を畳んでいると、夫は冷蔵庫から紙箱に入ったティラミスを出してきた。 「誕生日おめでとう」と言うので私は自分が歳をとったことに初めて気づく。毎日の通院と、夫の職場への連絡や娘の送り迎えもあり、そんなことはすっかり忘れていたのだった。 病院の庭であれば外出はできたので、ベンチに座って一緒にティラミスを食べた。付属のプラスチックスプーンは小さくて、2人で何度もすくうのが可笑しかった。夫はいつもの声で、院内のカフェでテイクアウトしたんだと教えてくれた。 暑さも和らぐ頃、夫は退院して自分の運転で帰れるほど回復した。あれ依頼、私は幸い病院のカフェを訪れることはない。けれどティラミスを食べるたび、優しい消毒液の匂いが鼻をかすめるのである。

いかやき さん

  • 家族とのごはん

お誕生日おめでとう

大学生の頃、付き合ってた彼も同じく大学生で2人とも美術を専攻していたこともあり、バイト代のほとんどを制作費に費やしお金がなかった。 でも、その頃は制作が一番で、2人でいて楽しければ、それで満足していた。 そんな中、私の誕生日が近づいてきた。しかし、彼の方が数日後に展覧会を控えており、気持ち的にもお金的にもお誕生日パーティーどころではなかった。私も仕方ないかと思っていたら、誕生日前日22時ごろ彼から「今から家に来れる?」と連絡が来た。丁度バイト帰りだったので、出かける手間など感じず、彼の家に向かった。 彼の家に着くと彼は「明日お誕生日だからさ、一緒に迎えたかったんだ」と言ってくれ、私は忙しい中、時間を作ってくれたことがとても嬉しかった。 そこからしばらくおしゃべりをし、0時を過ぎようとしたころ、彼が「ちょっと待ってて!」と言い、キッチンへ。「まさかケーキとか用意してくれてるの?」と私は内心、超テンションぶち上がりになった。 そして、部屋の電気が消され、ビートルズのハッピーバースデーが流れ出しいよいよだ!、とドキドキして待ったなしでいると、彼が「お誕生日おめえええええぇえ?!!!」と叫びに近い声で入ってきた。 彼の手元を見ると、ファミレスのとりわけ皿くらいの小さい皿持っている。それには何か載っており、さらにその何かの上に大きな火の塊ができていた。私は咄嗟に息を吹き掛けたが消えることもなく、むしろ彼に燃え移りそうで、2人でわたわたしてるうちに火は自然に消えた。(とても安心したのを覚えている) 火が消えて、部屋の電気をつけると、彼の持っていた皿には蝋だらけのチョコパイが載っていた。当時、彼は食事の代わりによくチョコパイを食べており、それは好物でもあったので、決して人にあげることはなった。(さすがの当時でも、金がないうえにすごくケチだな、一個くらいくれよ、と思っていた。) お金も時間もなかった彼は、自分の大切なチョコパイをケーキとして私に用意していたのだった。でも、ただ渡すだけでは流石に味気ないと思ったようで、私の年齢の数、約20本の誕生日ケーキ用の蝋燭を指していたのだ、直径10センチほどのチョコパイに。 そこに点火し一気に燃え移り、先のような状態になってしまい、蝋だらけのチョコパイが残ったのだ。 彼は「これじゃ食べられないね。」ととても悲しそうな顔をして、新しいチョコパイを私にくれた。 気がついたら日付は変わっていて、私は一つ年をとっていた。 誕生日とはいえ彼がチョコパイを分けてくれたこと、そして何よりもこんなにハラハラして笑いながら誕生日を迎えたのは初めてだったので、「とても楽しい誕生日ケーキをありがとう。」的なことを言って、2人でチョコパイを半分こして食べた。 その後、彼とは社会人のなり方ですれ違い、別れてしまったが、今でも定期的に会うような間柄である。もう10年以上は経つが、自分の誕生日だけでなく、家族の誕生日ケーキを見るだけで、あの日の炎のチョコパイバースデーを思い出し、ニヤリとしてしまう。

タミー さん

  • 恋人とのごはん

誕生日の思い出

私の誕生日は1月3日で。 田舎に住んでいたこと、三が日ということが合わさりケーキ屋さんはどこも閉まっていたのですが。 調理師免許を持ってる父が、本格的なオーブンや調理器具のある叔母の家に行きケーキを作ってくれる事に。 ですが、誕生日会をする時間になっても父は帰って来ず…。 遅いな〜と待ってると…片足を怪我した父がケーキを持って帰ってきました。 詳しく話を聞くと、ケーキがあるからって事で片手でケーキを持ってもう片方でバイクを運転してる時にバランスを崩して横転。 けどケーキは死守しなきゃと思ってたら、足を怪我してしまったと。 物凄く飄々というものの、結構血が出ていて家族は慌ててタオルやら救急箱やらを取って 20年近く経った今でも鮮明に思い出す、誕生日になりました。

とっとこ太郎 さん

  • 家族とのごはん

チキンバスケット

母は出産まで悪阻が酷くて私は母の実家に預けられました。 その母が体調のよい時に私に会いに来てくれました。母が帰る前に食事をする事になり駅に近いレストランへ。 そこでチキンバスケットを食べました。母が私に「これを食べたら、お母さん帰るからね」と言われておいしいし、お腹すいているから食べたいけど食べ終わったら母が帰ってまた会えないと思うと複雑でした。 今はそのレストランはなくなりましたが今でも店の前を通るとあのせつないような気持ちがよみがえります。

のん吉 さん

  • 家族とのごはん

1/17

エピソードをもっと見る

エリアで探す

夜更けの四万十居酒屋ご飯

学生時代の頃、東京から九州までヒッチハイクだけで往復をしたことがある。 新幹線に乗れば快適な道だが、当然ながら簡単には乗せてくれる人は見つからず、大変な旅だった。その分、人との交流や出会いがたくさん生まれた。 九州から四国にフェリーで上陸した時、すでに夕方くらいになっていた。 着いた港町はなかなか人手も少なく、車すらあまり走っておらず、ようやく乗せてくれる人を見つけて、四万十市についた頃には、夜遅くになっていた。 不安な気持ちでとりあえず夕飯を食べようとやっていた居酒屋のドアを開けると、にぎやかで温かい空気が流れていた。 四万十の名物を地元のおじさんに教えてもらいながら、旬の魚料理をいただいた。 またいつか行ってみたい。

もっちー さん

おこげで学んだ母親の優しさ

中学校の修学旅行で、仲の良い友達同士の班で飯盒炊爨に挑戦しました。料理なんてしたことのない悪ガキたちでは綺麗にご飯が炊けるはずもなく、お米は真っ黒焦げに。でも、僕たちにはそれが妙においしく感じられ、家に帰ってからも母親に"おこげ"を注文しました。「あんた、家では焦げを作る方が大変なのよ」と一度は断られたものの、不貞腐れる僕を見て"おこげ"のある焼きおにぎりを作ってくれました。時が経ち、家庭を持って料理をするようになると、母親の気持ちが分かるようになりました。母親を見習って、息子からの料理のリクエストにはなるべく応えるようにしています。

こしらず さん

初めての冷凍チャーハン

私は母から虐待されて育ちました。毎日毎日言葉の暴力と体の暴力。 自由もなく生きながら死んでるような毎日でした。 高校生になり初めて友達ができました。在学中は出かけたりすることは叶わなくて日々の学校との往復だけで20歳になりました。 その友達は遠方の大学に進み、私は身一つで家をでました。 そんな大学一年の年、友達の下宿先に数ヶ月身を寄せました。 夜ご飯は友達が用意してくれた冷凍チャーハン。私は見るのも食べるのも初めてで一口食べました。 その途端涙が溢れ出ました。今までの辛かった気持ちや友達の優しさ、チャーハンの温かさ、いろんな感情がごちゃ混ぜになって私を泣かせました。 あれから30年一人娘を授かりとても幸せです。 でも冷凍チャーハンを食べるたびにあの日の涙や友達の驚いた顔が浮かぶのです。

にこもこじゅん さん

イタリアンソーダ

学生時代、近くにお気に入りのカフェがあり、そこでイタリアンソーダというものを初めて飲んだ。炭酸に好きなシロップを選んで入れる。たくさん味の種類はあるけれど、どれも氷がたくさん入って、少し薄くて淡い味わいのイタリアンソーダ。少し奮発して(コンデンス)ミルクを足すのが、お金がない学生生活のひそかな贅沢だった。お気に入りはココナッツシロップにミルク。日本では見かけたことがないけれど、今飲んでも当時と同じくらい美味しく感じるのだろうか。

イーグルス さん

お母さんのカニクリームパスタ

誕生日や特別な日は自分が大好きなカニのクリームパスタにしてくれる両親。2人でカニを買ってきて、仕込んで仕上がる味は絶品。大きくなっても、それがずっと好きだと思って作ってくれる。でも、自分的には「ちょっと飽きてきたかな」と思うけど、毎回得意げに「今日はカニクリームパスタよ」と言ってくる両親の顔を見ると言えないし、愛されているなと改めて感じるそんな”ごはんメモリー”でした。

キュータロー さん

タグで探す

つくってよかったな〜!と思わせてくれる満開笑顔

私は元々料理が得意なタイプでは決してないけれど、気づけば、もう7年ほど、家の料理当番として、子どものため、家族のためにごはんを作り続けている。料理が得意ではないといっても、食べること自体は好きなので、数あるレシピサイトを参照して、涼しい顔を気取りつつ料理に集中すれば、その日食べたいものを作ることができ、食べることができる。日々のごはん作りはそうして乗り切れるけれど、こどもの遠足の日のお弁当作りは時間との勝負だ。いつもよりも早起きをして、お弁当に入れられるくらいには冷ます時間も考慮して、2口コンロ(実際には3口あるが3口目がどうも使いづらい)を駆使して、脳内でシミュレーションしながら手を動かしていく。何度つくっても、同じ組み合わせも良くないだろうと新たなことに挑戦はしてしまう性格なので、毎回、勝負どきなことには変わりない。そうして何回も行事を乗り越えてきたが、初めてのお弁当のときには「時間が足りなくてフルーツだけ残しちゃった」なんてしょぼんとしながらお弁当箱を渡してきたこどもが、保育園の年長さんになってからは「みてみて!完食だよ」と空になったお弁当箱を見せてくれるようになった。そして、小学生にあがってから学童での夏休みの日々には「お弁当箱、一段じゃ足りないから2つに増やしてほしい」と不服そうに伝えてきた。ああ、この子はお弁当をもっと食べたいと思ってくれてるんだ……! 嬉しさと同時に、その成長に心が動いた瞬間でした。 それからは、一段のわっぱ弁当におかずを詰めて、スープジャーにはメインとなる炊き込みご飯やパスタ、オムライスを詰めて、小さなタッパーにフルーツを入れて持っていくようになりました。時に完食してこないこともあるけれど、持っていく朝、完成したお弁当を「見せて見せて〜」と覗いてくるこどものため、これからも時々、勝負のお弁当作りをがんばります!

おさつチップ さん

食パンとバナナとナイフ

お父さんがいつも美味しそうに食べてる朝ごはん。食パンを焼いて、ナイフでバナナをスライスしてパンの上に並べたやつ。時々もらうけど、特別美味しくはない。うん、パンとバナナだよねって感じ。 聞けば、昔外国で働いてた時によく食べてたお父さんにとっては、思い出の朝ごはんらしい。 目の前にいるお父さんにも、私が知らない若い頃があったんだなって思えて、なんか不思議になる朝ごはん。

パンだ さん

気難しい母が笑う体育祭

私の母は気難しい人で、自分に厳しく、家族にも厳しい仕事人だった。そんな母は元々県大会で優勝するようなランナーだったこともあって、私の体育祭だけは、毎年欠かさず一人で応援に来てくれた。 体育祭のお昼休憩で合流する母は、いつもよりも盛り上がっていて、「今年の綱引きはあの戦いが見所だった」「あの競技のあの場面は応援しちゃうよね」「徒競走、惜しかったじゃん!もうちょっとだったよね」と、次々、話しかけてくれる。いつもと違う人みたい。 そんな母と食べる体育祭の日のお弁当は、いつもと同じような母が作ってくれるお弁当だったけれど、なんだか味が違った気がする。お弁当なのに、冷めていなかった気がする。

かもめコップ さん

お父さんの好物はキャベツ炒め

昔、九州に父が単身赴任をしていたときのこと。父が大好きだった小学生の私は、本気で父と赴任先の家に住みたくて、そのためには料理ができるといいだろうと、父に好物を聞きました。すると回答は「キャベツ炒め」。母に習い、真剣に作り方をメモし、一人で作れるように無事マスター。それでも、赴任先には連れて行ってもらえなかったわけですが……。数年もすれば、キャベツ炒めがとりわけ父の好物だったわけではなく、小学生の私でもつくれるメニューを挙げてくれたということがわかります。キャベツ炒め、美味しいですけどね! 大人になった私は、たまにその頃の私のいじらしさを思い出しながら、リモートワークのお昼にキャベツ炒めをささっと作って食べています。

むすめ さん

誕生日のとんかつ

僕の子供の頃は昭和40年代でコンビニや大型スーパーなど無く、個人商店のスーパーはお盆や正月にはしっかり休んでいました ファミレスも近くには無く、お盆の真っ最中の僕の誕生日のご馳走様は毎年とんかつでした。 普段も時々とんかつはでましたが、誕生日に食べるとんかつはとても美味しかったです。 今歳を重ねて、洒落たお店で高いステーキを食べる機会もありますが、あの時のとんかつより美味しい食べ物はありません。

眠り猫 さん