22
岩みたいなコロッケの思い出
岩コロッケ!私もかたくて崖のように歪なチョコレートケーキを作ったことがあるので他人事じゃなかったです笑 手間のかかるコロッケを作るというお母さまが素晴らしいですし ちょっとした失敗を一緒に笑ってくれる投稿者さまの優しさにキュンとしました。
SNSでシェア
コロッケの罠
運動会の日の私にとって一番の楽しみは昼ごはんでした。母が運動会の日に作ってくれるお弁当には、絶対に自家製コロッケ入っていました。その年も、母の自慢のコロッケが堂々と弁当箱の真ん中に鎮座していました。しかも今回は、何故かいつもよりひと回り大きく、見るからに"スペシャル"な雰囲気。「これを食べたら絶対勝てる!」とワクワクしながら、一口かじりました。ところが、その瞬間…まさかの「ガリッ」。ん?なんか硬いぞ?いつもホクホクのはずのコロッケが、まるで岩のように硬い!友達に「ちょっと噛んでみてよ」と渡してみると、彼女も苦笑いしながら「これ…岩じゃない?」と。全員大爆笑です。運動会後、家に帰って母に聞くと「揚げすぎちゃってさ、固まっちゃったのよ!」とケラケラ笑っていました。それ以来、あの「岩コロッケ」は、家族の中で伝説となり、毎年の運動会になると必ず話題に上る定番ネタになりました。
おうみ さん
作品をもっと読む
エピソードをもっと見る
エリアで探す
おばあちゃんのあげぱん
私にはおばあちゃんがいます。 正確には居ました。今はお空の上でひいおばあちゃん達と仲良く暮らしてると思います。 突然ですが私は揚げパンがとても大好きです。小さい頃からよくおばあちゃんが揚げパンを作ってくれていました。 ただ コッペパンを揚げる揚げパンとは違い食パンを四等分にしみみを切り正方形のまま揚げてお砂糖をまぶす至って簡単な作り方です。 1度に作る量が多いので毎回こんなに食べきれないよ〜と思いつつも結局美味しくてほとんど1人で平らげてしまうほど美味しかったんです。 おばあちゃんは私が成人する3ヶ月前に亡くなりました。 いつも何かあるとおばあちゃんに助けてもらいおばあちゃんの作ったご飯を食べ一緒に寝るのが本当に大好きでした。 亡くなってからは大好きな揚げパンを食べることが無くなり市販の揚げパンでは物足りなくどうしてもコッペパンの揚げパンではなくおばあちゃんが作ってくれたあの揚げパンが恋しかったんです。 ある日母が揚げパンを作ってくれました。 食べる気にもなれず そう伝えようと思い母が出してくれた揚げパンを見るとおばあちゃんの作った揚げパンと似ていて思わず1つ手に取ってしまいました。 とても美味しくておばあちゃんの作ってくれた揚げパンよりほんのちょっと甘めで それでも気がつくと泣きながら食べていました。 揚げパンが大好きな私を見兼ねて普段そういう料理を作らない母が作ってくれたことが何よりも嬉しく思いました。 あの時揚げパンを作ってくれた母には感謝していますし今では自分でもおばあちゃんと母が作ってくれた揚げパンを真似して作っています。 いつかおばあちゃんに私が作った揚げパンを食べて欲しい なんて思いながら。
しょくぱん さん
カンボジアのバス停とフライドライス
大学2回生の頃、よくバックパッカーとして旅に出ていた。それは自分を探す旅、とか、世界を知りたい、とか、高尚なものではなく、周りの人間が何かに打ち込んでいる中で、何もしていない自分への焦燥感に追いやられた旅だった。そんな中で思い出に残っているご飯はベトナムとカンボジアを繋ぐ長距離バスで名前も知らないカンボジア人の青年と食べたフライドライスだ。たまたま横に座った白いシャツをパリッと着こなした青年が「なぜこのバスに乗ってるんだ?」って話しかけてきたことから会話が始まった。当時も今も英語ができない僕は電子辞書を駆使しながら会話を続けていた。そこで話したことも何も覚えていないんだけど、途中休憩で着いたバスターミナルのことをよく覚えている。彼は「俺が奢ってやるから一緒にご飯を食べよう」と言ってくれたので、素直に好意を受け入れることにした。 そこで何も考えずに注文したフライドライスにはハエがたかり、テーブルに置いてあるスプーンは洗われておらず、トイレットペーパーで拭いて食べるスタイルだった。心の中では目を瞑りながら、感覚を麻痺させて、美味しいと言いながら完食した。彼に御礼を言い、彼はとても喜んでくれていたし、僕もとても嬉しかった。人の優しさや自分の喜びを感じながらも拭い去れない不快感がありながら、自分に卑しさを覚え、初めて感じた複雑な感情が渦巻き、これを成長と呼ぶのかな?と感じた僕のおもいでのごはんメモリーです。
アジアの純真 さん
嫌いな食べ物ある?
「嫌いな食べ物ある?」 居酒屋で飲んでいた時にした会話。 友達たちが「パクチー」「ほうれん草の味噌汁」「ゆでたキャベツ」と順番に答えていく。 一番最後私の番。もはや大喜利だろみたいなこの場面で私が答えたのが、 「加工されたいちご」。 全くウケなかった。分かっていたけど何か悔しい。何が正解だったのだろう。あれからずっと考えているが答えが出ない。 だからこそ皆さんに問いたい。 「嫌いな食べ物ある?」
和こうちゃ さん
おばあちゃんのからみ餅
子どものころ、毎年12月になると祖父母の家では親族が集まり、もち米を突いてお餅をつくっていた。 お小遣いをねだりに遊びに行くと、祖母が「お餅いるかい?」とよく食べさせてくれた。その際「どうやって食べる?」と聞いてくれる。家では磯部餅しか食べなかったが、祖母とはお餅を茹でてから大根おろしにしょうゆかけるからみ餅をよく食べた。磯部餅とは異なり、やらわかくて食べやすい。いま思えば祖母のやさしさと重なる。 大人になって知ったが、からみ餅は埼玉や福島の地元ごはんらしい。当時私や祖父母は埼玉にほど近い東京の北多摩地区に住んでいたので、伝わっていたのだろう。
フミ さん
田中角栄も食べたしょうゆドバドバ鰻重
私は学歴コンプレックスがあった。小中と成績はよかったが、生まれが貧しく、高校への進学が認められなかった。「勉強で人生を逆転しよう」と考えていた当時の私にとって、それは人生を奪われるほど辛い出来事だった。中学を卒業してすぐ、私は肉体労働を始めた。苦しい仕事だった。そんな辛い日々を支えてくれたのが、私と同じように学歴を持たず、成功した今太閤・田中角栄の存在である。給料日には、私は必ず背伸びをして、角栄が好きだった鰻を食べた。醤油が好きだった彼のように、ドバドバ醤油をかけてエネルギーを補給し、辛い仕事を続けた。私の勉強への思いは冷めることはなかった。5年仕事を続けた私は、仕事をするかたわら勉強を続け、20歳で通信制高校に入った。卒業してからは、東京の大学にも入って7年かけて卒業した。学び舎での勉強の日々は、私にとっては何よりも嬉しかった。日々怒号が飛び交う、命の危険のある職場で働いていた自分にとっては鮮烈で、喜びを毎日噛み締めながら学校に通った。大学を出るのに時間がかかったのは起業したからだ。忙しい日々を送る中でたくさん失敗もしたが、一つのビジネスが当たり、私は夢にまでみた大金持ちになった。私は自身の苦学と成功によって、学歴コンプレックスを克服した。40代になった私は今、10代のときに食べた鰻を変わらず、好物として食べ続けている。行きつけは、もちろん、私が尊敬する田中角栄がよく通っていたと言われている店だ。今日も私は、昼食に、角栄が愛した鰻屋で、彼が愛したように鰻重にたっぷり醤油をかけて食べている。辛い日々から這いあがろうとした10代の、青春の蹉跌を思い出しながら。
中田栄角 さん
タグで探す
ぷーぱっぽんかりー
スコールが降りやんだばかりのむっとするバンコクで、仕事を終えた後、先輩、後輩と「メシに行こう」と市内へ。おススメのお店があるからと彼らに連れていかれたのはソンブーンというシーフードのお店だった。ここの「ぷーぱっぽんかりー」ってカレーやばいから、と自信満々。ぷーぱっなんとかって呪文みたいだな、よどみなくメニュー名を読み上げる感じが通ぶってんな、そもそもこの2人そんなに食通だったか?と訝しみつつカレーを待った。やがて大皿がテーブルに運ばれてきた。ぶつ切りされた大きいカ二がどーん!と真ん中に盛られ、そこにスパイス香るややスーピーなカレーがさーとかけられ、その上にふわとろっとたまごがとじられている。パンチ強いビジュアル。確かにうまそうだ。どうよ、とおらついた様子でニヤついている2人に苛立ちをおぼえつつ、いざ食べ始めるともう止まらない。めちゃうまい。くせになる。何も話せない。カニの殻がもどかしいいけど、どうでもいい。気が付けば3人が無言で「プーパッポンカリー」をがっついていた。食後「うめーよな」と先輩に言われ、「サイコーっすね」とここは完敗を認めざるを得なかった。同じ皿の「プーパッポンカリー」を食べた先輩、後輩とはその後も長ーい付き合いが続いている。
ヒロ さん
6か月後の誕生日ケーキ
大学生になって誕生日は友達と過ごすようになった。クリスマスが誕生日の私にとって、誕生日を祝う=25日を家族で過ごすことになる。それがなんだか恥ずかしかったし、ケーキをわざわざ用意してもらうのもなぜか申し訳なかったのだ。だから、誕生日ケーキは断っていた。しかし、私の誕生日から6か月後のある日、母がホールケーキを買ってきた。しかも私の大好きなアイスケーキ。理由を聞くとお祝いできなかったことが母の中でもずっと気にかかっていたらしい。それを聞いて、自分の都合で母のお祝いしたいという気持ちをないがしろにしてしまっていたことに気づいた。6ヶ月過ぎてしまっていたけれど、その日ケーキを食べて初めて自分が誕生日を迎えた実感がわいた気がした、
スキュラ さん
仙台アーケードの揚げかまぼこ
仙台のアーケードで売ってる揚げかまぼこが青春の味、あの頃はCD屋さんも賑わっていて、新星堂で時間をつぶしたりしながら友達とアーケードをぶらぶらしながらよくたべてた。 いろんなことを思い出す味。
たなばたん さん
田中角栄も食べたしょうゆドバドバ鰻重
私は学歴コンプレックスがあった。小中と成績はよかったが、生まれが貧しく、高校への進学が認められなかった。「勉強で人生を逆転しよう」と考えていた当時の私にとって、それは人生を奪われるほど辛い出来事だった。中学を卒業してすぐ、私は肉体労働を始めた。苦しい仕事だった。そんな辛い日々を支えてくれたのが、私と同じように学歴を持たず、成功した今太閤・田中角栄の存在である。給料日には、私は必ず背伸びをして、角栄が好きだった鰻を食べた。醤油が好きだった彼のように、ドバドバ醤油をかけてエネルギーを補給し、辛い仕事を続けた。私の勉強への思いは冷めることはなかった。5年仕事を続けた私は、仕事をするかたわら勉強を続け、20歳で通信制高校に入った。卒業してからは、東京の大学にも入って7年かけて卒業した。学び舎での勉強の日々は、私にとっては何よりも嬉しかった。日々怒号が飛び交う、命の危険のある職場で働いていた自分にとっては鮮烈で、喜びを毎日噛み締めながら学校に通った。大学を出るのに時間がかかったのは起業したからだ。忙しい日々を送る中でたくさん失敗もしたが、一つのビジネスが当たり、私は夢にまでみた大金持ちになった。私は自身の苦学と成功によって、学歴コンプレックスを克服した。40代になった私は今、10代のときに食べた鰻を変わらず、好物として食べ続けている。行きつけは、もちろん、私が尊敬する田中角栄がよく通っていたと言われている店だ。今日も私は、昼食に、角栄が愛した鰻屋で、彼が愛したように鰻重にたっぷり醤油をかけて食べている。辛い日々から這いあがろうとした10代の、青春の蹉跌を思い出しながら。
中田栄角 さん