心が温まるおばあちゃんの肉じゃが

先日、職場のある兵庫県の神戸市から、地元である兵庫県の山間部に戻ってきたときのこと。 都心から離れた大自然の中、甥っ子たちと追いかけっこをして遊んでいると、おばあちゃんが「ごはんできたで」とぼくたちを呼びにきた。 今日の晩ご飯は、年に数回ほどの、親戚が一堂に会する珍しい機会だけあってとても豪華だった。 まだ年端もいかない甥っ子・姪っ子たちは脂っこい揚げ物やハンバーグ、スパゲティをこれでもかと口の中に頬張ってキャッキャと笑っている。ぼくも、あの年代のころは、彼らと同じものが好きだった。でもいま40代を迎えた自分にとって、一際食卓の中でも光っていたのが、おばあちゃんの肉じゃがだった。 薄味ながら辛さがアクセントになる味付けと、肉・じゃがいも・にんじん・こんにゃくといった具材のハーモニーがじんわりと口の中に広がった。おじさんのお酒のあてには最高だ。 でも思えば、この味は30年前と何ら変わっていない。カロリーの高いものばかりお腹いっぱい食べているぼくにとって、当時肉じゃがは必ずしも魅力的な一品でもなかった。「もっと食べんとあかんで」と言われたのに、少し食べてすぐに唐揚げを頬張っていた。 今、おばあちゃんは88歳になった。腰は少し曲がり、足取りも遅くなったが、当時と変わらないレシピで、変わらない味の肉じゃがを作ってくれる。ずいぶん大人にならないとこの魅力がわからなかったけど、いつだっておばあちゃんは自分のためを思って料理を作ってくれていたんだと気づかせてくれる真心のこもった味だった。 おばあちゃん、ごめん。そして、ありがとう。

山田いちろう

  • 地元ごはん

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大会の前夜のラーメン屋さん

高校生のときです。部活の大会が土曜日の朝早くからあるため、前乗りで開催地の下関に向かうことがありました。学校を早退し、みんなと移動して宿泊をする高揚感を携えながら夜ごはんは顧問の先生、部活仲間と町の小さな中華屋さんで食べました。食後に撮った写真が残っており、そこには楽しそうな先生と私たち、そして笑顔で一緒に並んで写真に収まる店主さん。写真を見るとそのときの思い出が蘇ってきます。

ろんぐ さん

茶色多めのお弁当

子供の頃、煮物とか胡麻和えとか、すこしくすんだ卵焼きとか、茶色が多めのお弁当が、少し嫌だった。周りの同級生のお弁当はなんだか色鮮やかで羨ましかった。 でも親になって、子供にお弁当を作るようになって感じるのは、あの色合いは手作りのおかずが多かったからなんだなということ。冷凍食品はきれいだけど、手作りのおかずをお弁当煮詰める方が、よっぽど大変で、今になってあの少し茶色いお弁当のありがたさを感じる。

おいら さん

気難しい母が笑う体育祭

私の母は気難しい人で、自分に厳しく、家族にも厳しい仕事人だった。そんな母は元々県大会で優勝するようなランナーだったこともあって、私の体育祭だけは、毎年欠かさず一人で応援に来てくれた。 体育祭のお昼休憩で合流する母は、いつもよりも盛り上がっていて、「今年の綱引きはあの戦いが見所だった」「あの競技のあの場面は応援しちゃうよね」「徒競走、惜しかったじゃん!もうちょっとだったよね」と、次々、話しかけてくれる。いつもと違う人みたい。 そんな母と食べる体育祭の日のお弁当は、いつもと同じような母が作ってくれるお弁当だったけれど、なんだか味が違った気がする。お弁当なのに、冷めていなかった気がする。

かもめコップ さん

食パンとバナナとナイフ

お父さんがいつも美味しそうに食べてる朝ごはん。食パンを焼いて、ナイフでバナナをスライスしてパンの上に並べたやつ。時々もらうけど、特別美味しくはない。うん、パンとバナナだよねって感じ。 聞けば、昔外国で働いてた時によく食べてたお父さんにとっては、思い出の朝ごはんらしい。 目の前にいるお父さんにも、私が知らない若い頃があったんだなって思えて、なんか不思議になる朝ごはん。

パンだ さん

田中角栄も食べたしょうゆドバドバ鰻重

私は学歴コンプレックスがあった。小中と成績はよかったが、生まれが貧しく、高校への進学が認められなかった。「勉強で人生を逆転しよう」と考えていた当時の私にとって、それは人生を奪われるほど辛い出来事だった。中学を卒業してすぐ、私は肉体労働を始めた。苦しい仕事だった。そんな辛い日々を支えてくれたのが、私と同じように学歴を持たず、成功した今太閤・田中角栄の存在である。給料日には、私は必ず背伸びをして、角栄が好きだった鰻を食べた。醤油が好きだった彼のように、ドバドバ醤油をかけてエネルギーを補給し、辛い仕事を続けた。私の勉強への思いは冷めることはなかった。5年仕事を続けた私は、仕事をするかたわら勉強を続け、20歳で通信制高校に入った。卒業してからは、東京の大学にも入って7年かけて卒業した。学び舎での勉強の日々は、私にとっては何よりも嬉しかった。日々怒号が飛び交う、命の危険のある職場で働いていた自分にとっては鮮烈で、喜びを毎日噛み締めながら学校に通った。大学を出るのに時間がかかったのは起業したからだ。忙しい日々を送る中でたくさん失敗もしたが、一つのビジネスが当たり、私は夢にまでみた大金持ちになった。私は自身の苦学と成功によって、学歴コンプレックスを克服した。40代になった私は今、10代のときに食べた鰻を変わらず、好物として食べ続けている。行きつけは、もちろん、私が尊敬する田中角栄がよく通っていたと言われている店だ。今日も私は、昼食に、角栄が愛した鰻屋で、彼が愛したように鰻重にたっぷり醤油をかけて食べている。辛い日々から這いあがろうとした10代の、青春の蹉跌を思い出しながら。

中田栄角 さん

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思い出の夜ご飯

自分は中学2年生の吹奏楽部なのですが中学1年生の時コンクールに疲れしかも銅賞(吹部の中では最下位みたいなもの)で最悪な気分で帰り不機嫌なまま寝てしまいました。翌日は土曜日だったのですが朝早い両親は仕事へ姉2人は部活へ自分一人家に残りました。そして机の上に書置きがあり見てみると昨日の夜ご飯入っとるし食べといてと書いてありました。見ると自分が大好きなチャーハン。それも自分好みの味になっていました。まだ感謝を伝えられていません。

あいす さん

母の誕生日、ココナッツパンにロールキャベツ

母は日本語を日本人と同じくらい上手に話すが、異国の出身で、出身地の料理が日本にないことをいつも嘆いていた。そのうちのひとつがココナッツパンだった。母の誕生日に、私が「誕生日は何が欲しい?」と聞くと、いつも「ココナッツのパンが食べたい」と答えていた。まだ幼かった私は、ココナッツパンなんて食べたことも無く、ネットで調べても日本語のレシピは見当たらなかった。その代わりに、私の大好物であるロールキャベツを母の誕生日に作って一緒に食べていた。そして、ついに私が15歳、高校一年生のとき、母の誕生日にココナッツのパンを作ってあげようと思い立った。ネットで調べても、日本語で書かれたレシピは見つからなかった。そこで、私は異言語で書かれたレシピを翻訳サイトを使ってちまちま翻訳しながらココナッツパンを焼いた。焼き上がりは自分が見てもなかなか上出来だったと思う。その夜、仕事から帰ってきた母は私の焼いたココナッツのパンを少し涙ぐみながら美味しそうに食べた。「この味だよ、𓏸𓏸(私の名前)これがずっと食べたかったの、本当に美味しいよ」と私を抱きしめた。父の分も含めて多めに焼いたつもりだったが、母は1人で2人分も食べた。母に褒められて嬉しかったのもあって、それから毎年母の誕生日にはココナッツパンとロールキャベツを作って誕生日を祝っている。今でこそもう慣れたココナッツパン作りは、当時の私にとっては大冒険だったことを覚えている。

くろすけ さん

青春の食べ放題

中学生のころ、なにかイベントがあると時々同級生と田舎の食べ放題に行っていた。電車に乗って遠出をする感じが、子供たちだけで旅に出ているようで、どこか特別な感じした。子供にとっては豪華な金額を払っていることもあり、もとをとろうとはりきって食べ過ぎて、ぱんぱんのお腹で田んぼのあぜ道を駅に向かって帰っていた夕闇の風景をとても覚えている。

青春っていいよね さん

仙台アーケードの揚げかまぼこ

仙台のアーケードで売ってる揚げかまぼこが青春の味、あの頃はCD屋さんも賑わっていて、新星堂で時間をつぶしたりしながら友達とアーケードをぶらぶらしながらよくたべてた。 いろんなことを思い出す味。

たなばたん さん

大阪のおでん屋さんのうどん

20代前半、社会人になって間もないころ、慣れない出張で大阪へ。緊張しながらも取引先と日中の仕事を無事終えることができた。夜は打上げで大いに盛り上がり、1軒で3時間は過ぎていただろうか。すでにだいぶお酒も呑んでいた。店を出ると、「締めの一杯行こうぜ」と言われ、まだ呑むのかよ、勘弁してくれよ、と思いつつ千鳥足で歩き回り、営業しているおでん屋さんをみつけ飛び込んだ。とりあえずじゃないけどビールとおでんを少々頼み再度乾杯。そこで口にしたおでんのおだしが・・・うまい。東京と違う。地域によっておだしが異なるという知識はあったが、体験したのは初めてだった。さらに若かった私はまたお腹がすき始めていることに気づき、おでんでは飽き足らず、何か追加注文しようと思い立った。「うどん頼んでいいすか」と取引先に伝えると、「いいよ、しっかしお前、よく食うなぁ―」と上機嫌。でてきたのはシンプルきわまりない素うどんだったが、これが五臓六腑にしみわたるうまさ。そもそも、なんでおでん屋にうどんがあるんだ?、東京にはおでん屋ってないよなあ、大阪なんかいいな、と思いながらうどんをすすってあっという間に完食。取引先は半寝状態。何だか大人の階段を上った気がした夜だった。

河童 さん