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旭川の塩ホルモン
出張で旭川に行ったとき、駅前通りでふらっと入った「馬場ホルモン」が絶品だった。入ったら注文は聞かれず、お皿に乗った塩ホルモンが出てきた。同僚と顔を見合わせながら、おそるおそる「ビ、ビール」というと瓶ビールが無言で出てきて、周りを見ながら「お代わり」というと追加のホルモンが運ばれてくることを悟って。メニューは塩ホルモンだけだから、聞く必要はなくて、追加がいるかどうか、それだけ。そういう地元ルール満載の異文化感もなんかワクワクした。
旅するお皿 さん
台湾の鍋
実は鍋メニューが充実する国、台湾。出張時に仕事仲間から紹介され、ぜひ家族にも教えてあげたいとプライベートでも訪れるほどはまった鍋がある。長白小館というお店の酸菜白肉火鍋。漢字から想像できるように、酸味のある白菜の漬物と豚肉を重ねている。それだけでもおいしそうな見た目なのだが、席から離れたたれコーナーで10種類を超える調味料や具材を組み合わせ、好みのつけだれを調合するのが楽しい。いざ家族を台湾に連れてきてみると、八角の香りが苦手で食べられないメニューもあったが、この鍋は小さな子どもたちにも好評だった。もう10年近く前の家族旅行だが、いまでも振り返ると必ず話題にのぼるハイライトだ。
ヤマ さん
京都滞在を延ばした本当の理由は、ごぼ天うどん?
大学1年生の12月28日、初めて一人旅に出た。場所は京都。 アルバイトで貯めたお金に余裕はなくて、宿泊はゲストハウスに。そのゲストハウスの人に教えてもらって、食べに入ったうどん屋さん。 そこで、ごぼ天うどんを食べて目を見開いた。ごぼうがシャクシャク、ホクホク。カレー塩がまぶしてあって、永遠に食べていられる絶妙なごぼ天なのだ。うどんとの相性も最高、悪いわけない、永遠コース。 感動した私は、ゲストハウスで人と知り合うたびにごぼ天うどんに誘い、新しく宿泊しにきた人をごぼ天うどんに誘い、ごぼ天の美味しさをただただみんなと共有し続けた。 そして、12月31日。この日には東京に帰る予定だったのに、「私、今夜も、ごぼ天食べていこうかな……」 その場にいたゲストハウスの友人たちは「本当にあのお店のごぼ天うどんが好きなんだねえ、付き合うよ」と笑ってくれた。 結局、2泊も延泊した。初めて、年越しを実家以外で過ごした冬だった。 私が延長したかったのは、ごぼ天を食べる時間だったのか、ゲストハウスで知り合った友人たちとの会話や時間だったのか。美味しさと楽しさをないまぜにして、東京に帰った。
ぐうぐう さん
おばあちゃんの手作りミルクアイスキャンディー
雰囲気とか、話し方とか、笑い方とか、おばあちゃんはなんだか魔女みたいな雰囲気の人だった。車で40分くらいのところにある、かつて父も暮らした家に住んでいた。夏休みに家族で遊びに行くと決まって、いいものあるよぉ、食べるかぃー?ってちょっと芝居がかった前振りをされる。うん食べたい!って答えると、銀色の筒に棒が刺さったアイスキャンディーを出してくれる。カラフルなオレンジ味、グレープ味、レモン味もあったが、真っ白なミルク味が一番好きだった。どう、おいしい?それはよかったわぁ!ってうれしそうだった顔を思い出す。孫のために手作りしてくれた、甘くて、シャリっとして、素朴な味で、本当においしかった。父たち兄弟も食べていた、おばあちゃんのお得意デザートだったとあとで聞いた。
ねるねるねるね さん
卵型のゼリー
小学校の校外学習が誕生日と被った3年生の秋。その日のお弁当はいつもと違って特別でした。卵に小さな穴を開けて中身を出して、中にゼリーを入れて母特製のバースデースイーツを作ってお弁当に入れてもらいました。遠足の外で食べるお弁当というだけで、いつもより特別なのに、今日はさらに特別。そしてお友達からもおめでとうと言ってもらい、ご機嫌。一緒にレジャーシートを広げて食べた子たちからはいいなぁと羨ましがられ、ちょっぴり得意気。食べたらすすぎきれなかったのか、少し卵の味が残っていたゼリーでしたが、嬉しかったです。素直じゃないので、帰宅後、きちんと母にありがとうを言えなかった記憶がありますが、ちゃんと伝えれば良かったなぁ。母からの愛を感じました。10年以上前に他界していて今はもう会えない母に感謝です。素敵な美味しい愛情たっぷりのお弁当をありがとう。美味しかったよ!またいつか食べたいよ〜。
へなちょこぴーまん さん
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こんなときだから
大学生の頃、悲しい知らせがあって、急に一人暮らしの家を出て、九州の実家に帰省することとなった。自炊が習慣化していた私は、その前夜にたくさんの野菜やお肉・魚類を買い溜めて、一人暮らし用の小さな冷蔵庫をいっぱいにしていた。あまりにも悲しそうな私を見かねて、彼氏が私の家から空港まで送ってくれると言ってくれた。悲しい気持ちを味わい、そして翌朝の出発の準備をしながら、冷静な頭ではその大量の食材をどうにかしないと、という思いがあり、なぜか私は食材を使い切る勢いでごはんを作った。自炊は習慣化していたけれどそこまで手際が良い訳なかった私だが、なぜかそのときはどんどん料理を作った。今思えば料理は一つのセラピーのようで、手元に集中することが心地よかった。彼氏が夜のうちに家に来てくれたとき、テーブルに並んだ大量の食事を見て驚いていたけれど、その夜、その食事を美味しそうに次々たいらげてくれた。私はどこか安心した気持ちで、翌朝、九州に帰省した。
tree さん
田中角栄も食べたしょうゆドバドバ鰻重
私は学歴コンプレックスがあった。小中と成績はよかったが、生まれが貧しく、高校への進学が認められなかった。「勉強で人生を逆転しよう」と考えていた当時の私にとって、それは人生を奪われるほど辛い出来事だった。中学を卒業してすぐ、私は肉体労働を始めた。苦しい仕事だった。そんな辛い日々を支えてくれたのが、私と同じように学歴を持たず、成功した今太閤・田中角栄の存在である。給料日には、私は必ず背伸びをして、角栄が好きだった鰻を食べた。醤油が好きだった彼のように、ドバドバ醤油をかけてエネルギーを補給し、辛い仕事を続けた。私の勉強への思いは冷めることはなかった。5年仕事を続けた私は、仕事をするかたわら勉強を続け、20歳で通信制高校に入った。卒業してからは、東京の大学にも入って7年かけて卒業した。学び舎での勉強の日々は、私にとっては何よりも嬉しかった。日々怒号が飛び交う、命の危険のある職場で働いていた自分にとっては鮮烈で、喜びを毎日噛み締めながら学校に通った。大学を出るのに時間がかかったのは起業したからだ。忙しい日々を送る中でたくさん失敗もしたが、一つのビジネスが当たり、私は夢にまでみた大金持ちになった。私は自身の苦学と成功によって、学歴コンプレックスを克服した。40代になった私は今、10代のときに食べた鰻を変わらず、好物として食べ続けている。行きつけは、もちろん、私が尊敬する田中角栄がよく通っていたと言われている店だ。今日も私は、昼食に、角栄が愛した鰻屋で、彼が愛したように鰻重にたっぷり醤油をかけて食べている。辛い日々から這いあがろうとした10代の、青春の蹉跌を思い出しながら。
中田栄角 さん
ばあちゃんの赤飯
両親が離婚して家事の一手を担っていた うちのばあちゃん 高校を卒業して一人暮らしを始めてから たまに実家に帰ると 必ず赤飯を炊いてくれていました。 ぽろっと私がこぼした 「赤飯すきなんよね〜」の言葉を いつまでも覚えていてくれて 一升の赤飯を毎回毎回! 家族で私以外はあまり赤飯が好きではなかったみたいで 残す訳にもいかずお腹がはちきれるくらい食べました。 もっとたべておけばよかったなあ おいしかったありがとうってたくさん言っとけば よかったなあ なんて今になって思います。
ひざかさかさ さん
おばあちゃんの民宿
沖縄の慶良間諸島に旅行にいったときに、おばあちゃんが運営している民宿に泊まった。 ビジネスライクな宿が増えている中、良い意味でおせっかいをやいてくれて、ゴウヤチャンプルーとか、食べたいものを作って出してくれた。 朝はニワトリの鳴き声とともに目覚め、おばあちゃんが朝食を出してくれる。 なぜかすごく懐かしい感じがして、居心地がよくて、また食べにいきたいなと思っている。
ららばい さん
6か月後の誕生日ケーキ
大学生になって誕生日は友達と過ごすようになった。クリスマスが誕生日の私にとって、誕生日を祝う=25日を家族で過ごすことになる。それがなんだか恥ずかしかったし、ケーキをわざわざ用意してもらうのもなぜか申し訳なかったのだ。だから、誕生日ケーキは断っていた。しかし、私の誕生日から6か月後のある日、母がホールケーキを買ってきた。しかも私の大好きなアイスケーキ。理由を聞くとお祝いできなかったことが母の中でもずっと気にかかっていたらしい。それを聞いて、自分の都合で母のお祝いしたいという気持ちをないがしろにしてしまっていたことに気づいた。6ヶ月過ぎてしまっていたけれど、その日ケーキを食べて初めて自分が誕生日を迎えた実感がわいた気がした、
スキュラ さん