ジャージャー麺が好きな人

小学生のとき、ずっと好きな人がいた。彼はジャージャー麺が好きだったから、給食の献立にジャージャー麺と書いてあると、大きな声で喜んでいた。私はその決戦の日にできるだけ給食当番になり、さらに、麺担当になるべく画策した。 いざ配膳のとき、彼は「ねえ、多めでお願いします」と冗談らしく声をかけてきたが、私はクールぶった対応をした。隣に並ぶ同級生と彼がふざけ合う間、私は、彼の分のジャージャー麺を、贔屓にならない程度、気持ち多めによそった。 「あれ、ちょっと多くね?」と気づいてくれないかなあ、とソワソワしながら、彼が隣のスープを受け取りに横にずれるのを視界の片隅で見ていた。

さり

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母の誕生日、ココナッツパンにロールキャベツ

母は日本語を日本人と同じくらい上手に話すが、異国の出身で、出身地の料理が日本にないことをいつも嘆いていた。そのうちのひとつがココナッツパンだった。母の誕生日に、私が「誕生日は何が欲しい?」と聞くと、いつも「ココナッツのパンが食べたい」と答えていた。まだ幼かった私は、ココナッツパンなんて食べたことも無く、ネットで調べても日本語のレシピは見当たらなかった。その代わりに、私の大好物であるロールキャベツを母の誕生日に作って一緒に食べていた。そして、ついに私が15歳、高校一年生のとき、母の誕生日にココナッツのパンを作ってあげようと思い立った。ネットで調べても、日本語で書かれたレシピは見つからなかった。そこで、私は異言語で書かれたレシピを翻訳サイトを使ってちまちま翻訳しながらココナッツパンを焼いた。焼き上がりは自分が見てもなかなか上出来だったと思う。その夜、仕事から帰ってきた母は私の焼いたココナッツのパンを少し涙ぐみながら美味しそうに食べた。「この味だよ、𓏸𓏸(私の名前)これがずっと食べたかったの、本当に美味しいよ」と私を抱きしめた。父の分も含めて多めに焼いたつもりだったが、母は1人で2人分も食べた。母に褒められて嬉しかったのもあって、それから毎年母の誕生日にはココナッツパンとロールキャベツを作って誕生日を祝っている。今でこそもう慣れたココナッツパン作りは、当時の私にとっては大冒険だったことを覚えている。

くろすけ さん

旭川の塩ホルモン

出張で旭川に行ったとき、駅前通りでふらっと入った「馬場ホルモン」が絶品だった。入ったら注文は聞かれず、お皿に乗った塩ホルモンが出てきた。同僚と顔を見合わせながら、おそるおそる「ビ、ビール」というと瓶ビールが無言で出てきて、周りを見ながら「お代わり」というと追加のホルモンが運ばれてくることを悟って。メニューは塩ホルモンだけだから、聞く必要はなくて、追加がいるかどうか、それだけ。そういう地元ルール満載の異文化感もなんかワクワクした。

旅するお皿 さん

冬の予備校帰りに食べたカツ丼の味

なんでもないご飯なのに、とても感動することがある。 受験生だったとき、朝から晩まで勉強で我ながらよく頑張っていた気がする。 しかし成績は思い通りに伸びるわけではなく、よく落ち込んでいた。 たしか、模試の結果が良くなく、落ち込みながら帰った帰り道。 ふと見つけたカツ丼屋に吸いこまれていった。 寒くて凍えるような日で、出てきたカツ丼を食べて、あまりのおいしさに少し涙が出た。 あれ以来、色々なカツ丼を食べたけど、あの日のカツ丼を超えることはまだない。

さいとう さん

残飯処理班

中学生3年生の時にクラスで給食を残さないようにしようという取り組みがあり、クラスの有志5人(私以外全員男子)で毎日残った給食を完食目指して食べていました。私は野菜担当でしたが全員の配膳が終わりおかわりまで終わると、四角い食缶ごと自分の机に持って行き抱えて食べていました。私は納豆和えが大好きでしたが、人気の無いメニューだったので毎回沢山残っており…大好きなメニューをお腹いっぱい食べられてとても幸せでした。ただ食べ過ぎるとその後の掃除の時間にひびいて大変でした、当時はただの食いしん坊の奇行でした。今こうして思い返してみると、フードロスを最小限に減らせていた上に、私のブラックホールな胃袋まで満たされていたんだなと。画期的な取り組みだったなと思います(笑)男子達と食缶を抱えて食べたあの日々、とてもいい思い出です。

なじゅん さん

こんなときだから

大学生の頃、悲しい知らせがあって、急に一人暮らしの家を出て、九州の実家に帰省することとなった。自炊が習慣化していた私は、その前夜にたくさんの野菜やお肉・魚類を買い溜めて、一人暮らし用の小さな冷蔵庫をいっぱいにしていた。あまりにも悲しそうな私を見かねて、彼氏が私の家から空港まで送ってくれると言ってくれた。悲しい気持ちを味わい、そして翌朝の出発の準備をしながら、冷静な頭ではその大量の食材をどうにかしないと、という思いがあり、なぜか私は食材を使い切る勢いでごはんを作った。自炊は習慣化していたけれどそこまで手際が良い訳なかった私だが、なぜかそのときはどんどん料理を作った。今思えば料理は一つのセラピーのようで、手元に集中することが心地よかった。彼氏が夜のうちに家に来てくれたとき、テーブルに並んだ大量の食事を見て驚いていたけれど、その夜、その食事を美味しそうに次々たいらげてくれた。私はどこか安心した気持ちで、翌朝、九州に帰省した。

tree さん

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給食のわかめごはん おにぎり

中学の給食の時の話です。 わかめが入ったご飯が主食として出たのですが、その日はご飯がかなり余ってしまいました。そこで担任の先生が余ったわかめご飯を小さいおにぎりにして食べれる人に配ってくれました。 小さい一口サイズのおにぎりで、小ぶりな感じがなんだか愛おしかったのを覚えています。

ポンデと さん

割るオムライス

あまり料理をしない父が、唯一得意にしていたのが、卵をのせて最後に包丁で割るとトロッとひらくオムライス。何かのテレビで見てつくったところ、「プロみたい!」と家族に褒められ、気をよくした父は、ことあるごとにそのオムライスを披露してた。今思うと、きれいに包む方が難しい気もするけど、あのオムライスは、いなかの我が家の食卓にあって、ダントツでおしゃれで、何だが幸せな味がした。わかっていても、割れた瞬間「おぉ・・・!」とみんなで歓声をあげて、そのたび父はとても自慢げだった。

タマゴ さん

田中角栄も食べたしょうゆドバドバ鰻重

私は学歴コンプレックスがあった。小中と成績はよかったが、生まれが貧しく、高校への進学が認められなかった。「勉強で人生を逆転しよう」と考えていた当時の私にとって、それは人生を奪われるほど辛い出来事だった。中学を卒業してすぐ、私は肉体労働を始めた。苦しい仕事だった。そんな辛い日々を支えてくれたのが、私と同じように学歴を持たず、成功した今太閤・田中角栄の存在である。給料日には、私は必ず背伸びをして、角栄が好きだった鰻を食べた。醤油が好きだった彼のように、ドバドバ醤油をかけてエネルギーを補給し、辛い仕事を続けた。私の勉強への思いは冷めることはなかった。5年仕事を続けた私は、仕事をするかたわら勉強を続け、20歳で通信制高校に入った。卒業してからは、東京の大学にも入って7年かけて卒業した。学び舎での勉強の日々は、私にとっては何よりも嬉しかった。日々怒号が飛び交う、命の危険のある職場で働いていた自分にとっては鮮烈で、喜びを毎日噛み締めながら学校に通った。大学を出るのに時間がかかったのは起業したからだ。忙しい日々を送る中でたくさん失敗もしたが、一つのビジネスが当たり、私は夢にまでみた大金持ちになった。私は自身の苦学と成功によって、学歴コンプレックスを克服した。40代になった私は今、10代のときに食べた鰻を変わらず、好物として食べ続けている。行きつけは、もちろん、私が尊敬する田中角栄がよく通っていたと言われている店だ。今日も私は、昼食に、角栄が愛した鰻屋で、彼が愛したように鰻重にたっぷり醤油をかけて食べている。辛い日々から這いあがろうとした10代の、青春の蹉跌を思い出しながら。

中田栄角 さん

おばあちゃんのあげぱん

私にはおばあちゃんがいます。 正確には居ました。今はお空の上でひいおばあちゃん達と仲良く暮らしてると思います。 突然ですが私は揚げパンがとても大好きです。小さい頃からよくおばあちゃんが揚げパンを作ってくれていました。 ただ コッペパンを揚げる揚げパンとは違い食パンを四等分にしみみを切り正方形のまま揚げてお砂糖をまぶす至って簡単な作り方です。 1度に作る量が多いので毎回こんなに食べきれないよ〜と思いつつも結局美味しくてほとんど1人で平らげてしまうほど美味しかったんです。 おばあちゃんは私が成人する3ヶ月前に亡くなりました。 いつも何かあるとおばあちゃんに助けてもらいおばあちゃんの作ったご飯を食べ一緒に寝るのが本当に大好きでした。 亡くなってからは大好きな揚げパンを食べることが無くなり市販の揚げパンでは物足りなくどうしてもコッペパンの揚げパンではなくおばあちゃんが作ってくれたあの揚げパンが恋しかったんです。 ある日母が揚げパンを作ってくれました。 食べる気にもなれず そう伝えようと思い母が出してくれた揚げパンを見るとおばあちゃんの作った揚げパンと似ていて思わず1つ手に取ってしまいました。 とても美味しくておばあちゃんの作ってくれた揚げパンよりほんのちょっと甘めで それでも気がつくと泣きながら食べていました。 揚げパンが大好きな私を見兼ねて普段そういう料理を作らない母が作ってくれたことが何よりも嬉しく思いました。 あの時揚げパンを作ってくれた母には感謝していますし今では自分でもおばあちゃんと母が作ってくれた揚げパンを真似して作っています。 いつかおばあちゃんに私が作った揚げパンを食べて欲しい なんて思いながら。

しょくぱん さん

はぱのみ焼き

自分のお父さんは極稀に「はぱのみ焼き」という美味しいお好み焼きを作ってくれます。具材は様々で枝豆が入っていたりチーズが入っていたりとにかく様々な種類で美味しいのです。小さい頃から自分は店員の事をペンギンと呼んでおり店員の事を呼ぶ時(店員はお好み焼きを運ぶ人の事)ペンギンと呼んでいます。いつも何故はぱのみ焼きなんだろうと考えていましたが、小さい頃は「お好み焼き」の、のみからとったんだなと思っていました。それから特に考えることなく中学校2年生になりました。そこでわかったんです。のみはだけと同じ意味ののみなんだと。いつもありがとう

あいす さん