みんなから集まったごはんの思い出
投稿エピソード一覧
全12作品
真冬のニューヨークとピザ
ある年の大晦日、ニューヨークへ弾丸で一人旅をした。 その年は記録的な大寒波が到来、空港に到着するなり、耳や頭が冷えて、だんだんと具合が悪くなるほどに寒かった。 英語もろくに喋れないのに、無謀にも1人で海外旅行に挑戦してみたが、寒さと言葉の通じない心細さで、初日から心が折れて、早く帰りたい気持ちになってしまった。 お店の注文も不安だったので、宿泊先のホテル近くの小さなピザ屋で何とか安いピザとコーラを頼み、空腹を満たした。せっかくニューヨークまで来たのに、安いピザとコーラしか食べられない自分に情けなくなりながら、その日は眠りについた。それでも1-2日ほど過ごしたら、次第にフッキレたのか、言葉が通じないことにもめげず、色々なお店に行ったり、観光地に行ったり、旅行を楽しむことができた。年越しの瞬間は、地元の人たちが集まるレストランで、テレビに映るタイムズスクエアのカウントダウンを見ながら知らない人たちとシャンパンで乾杯していた。 今でも時々、テレビで真冬のニューヨークを見ると、あの時のピザとコーラを思い出す。
mukamuka さん
イタリアンソーダ
学生時代、近くにお気に入りのカフェがあり、そこでイタリアンソーダというものを初めて飲んだ。炭酸に好きなシロップを選んで入れる。たくさん味の種類はあるけれど、どれも氷がたくさん入って、少し薄くて淡い味わいのイタリアンソーダ。少し奮発して(コンデンス)ミルクを足すのが、お金がない学生生活のひそかな贅沢だった。お気に入りはココナッツシロップにミルク。日本では見かけたことがないけれど、今飲んでも当時と同じくらい美味しく感じるのだろうか。
イーグルス さん
カンボジアのバス停とフライドライス
大学2回生の頃、よくバックパッカーとして旅に出ていた。それは自分を探す旅、とか、世界を知りたい、とか、高尚なものではなく、周りの人間が何かに打ち込んでいる中で、何もしていない自分への焦燥感に追いやられた旅だった。そんな中で思い出に残っているご飯はベトナムとカンボジアを繋ぐ長距離バスで名前も知らないカンボジア人の青年と食べたフライドライスだ。たまたま横に座った白いシャツをパリッと着こなした青年が「なぜこのバスに乗ってるんだ?」って話しかけてきたことから会話が始まった。当時も今も英語ができない僕は電子辞書を駆使しながら会話を続けていた。そこで話したことも何も覚えていないんだけど、途中休憩で着いたバスターミナルのことをよく覚えている。彼は「俺が奢ってやるから一緒にご飯を食べよう」と言ってくれたので、素直に好意を受け入れることにした。 そこで何も考えずに注文したフライドライスにはハエがたかり、テーブルに置いてあるスプーンは洗われておらず、トイレットペーパーで拭いて食べるスタイルだった。心の中では目を瞑りながら、感覚を麻痺させて、美味しいと言いながら完食した。彼に御礼を言い、彼はとても喜んでくれていたし、僕もとても嬉しかった。人の優しさや自分の喜びを感じながらも拭い去れない不快感がありながら、自分に卑しさを覚え、初めて感じた複雑な感情が渦巻き、これを成長と呼ぶのかな?と感じた僕のおもいでのごはんメモリーです。
アジアの純真 さん
おかわりした漬物サンドイッチの衝撃
いまから20年前。 ホーチミンの現地法人オフィスでベトナムの仲間たちとたどたどしい英語でミーティングしていた。 ディスカッションが長くなりショートブレイクを入れたタイミングで、フードデリバリーで軽食を頼んでくれるという。 いまでは日本でもすっかり有名になったバインミーがずらっと並んだメニュー表を渡されたが、彼らのおススメに従った。 パクチーが苦手でアジア・エスニック料理全般避けがちだった私は、届いたラップをおそるおそる開き、はしっこを小さめにかじってみた。 驚いた。フランスパンの間に肉と酸っぱいおしんこ?なます?が入っている。洋のものに和のものがはさまった、ベトナムのサンドイッチ?ほんの一瞬頭が混乱したが二口目からはもう夢中だった。 あんまりおいしくてつい調子に乗り、追加発注してもらえないかおねだりしたら喜んで発注してくれた。1個追加をお願いしたのに2個届いた。そして追加分の中には苦手なパクチー入りのものもあったがすべておいしくいただいた。 ベトナムの仲間たちのうれしそうな顔を覚えている。元気にしているだろうか。
チャン さん
サンフランシスコの海鮮シチュー
仕事で訪れたサンフランシスコ。せっかくだから何かおいしいものを食べたいと探してみつけたのが名物の「チョッピーノ」。その昔、イタリアから入植した漁師たちから生まれたメニューらしい。カニやエビ、ホタテ、イカ、クラム、ムール貝などもりだくさんの魚介類をトマト、ワインベースのスープで煮込んでいる。バケットをひたして食べるのがたまらなくおいしい。半年前に行った際は夕食時だというのに街中閑散としたお店ばかりだったが、チョッピ-ノで有名なお店だけは大変な賑わい。次から次へと予約客が入ってくる。どのテーブルにもチョッピーノは必ずサーブされていた。隣のテーブルで食べ終わった老人が席を立つ際に「どう、おいしい?それはよかった」と流ちょうな日本語で話しかけてきた。アメリカはどの都市に行っても同じような食べ物ばかりと思いがちだが、半島の先端に位置して海の幸に恵まれたサンフランシスコには、この都市ならではの地元ごはんがあった。また食べに行きたい。
ソットマーレ さん
台湾の鍋
実は鍋メニューが充実する国、台湾。出張時に仕事仲間から紹介され、ぜひ家族にも教えてあげたいとプライベートでも訪れるほどはまった鍋がある。長白小館というお店の酸菜白肉火鍋。漢字から想像できるように、酸味のある白菜の漬物と豚肉を重ねている。それだけでもおいしそうな見た目なのだが、席から離れたたれコーナーで10種類を超える調味料や具材を組み合わせ、好みのつけだれを調合するのが楽しい。いざ家族を台湾に連れてきてみると、八角の香りが苦手で食べられないメニューもあったが、この鍋は小さな子どもたちにも好評だった。もう10年近く前の家族旅行だが、いまでも振り返ると必ず話題にのぼるハイライトだ。
ヤマ さん
ぷーぱっぽんかりー
スコールが降りやんだばかりのむっとするバンコクで、仕事を終えた後、先輩、後輩と「メシに行こう」と市内へ。おススメのお店があるからと彼らに連れていかれたのはソンブーンというシーフードのお店だった。ここの「ぷーぱっぽんかりー」ってカレーやばいから、と自信満々。ぷーぱっなんとかって呪文みたいだな、よどみなくメニュー名を読み上げる感じが通ぶってんな、そもそもこの2人そんなに食通だったか?と訝しみつつカレーを待った。やがて大皿がテーブルに運ばれてきた。ぶつ切りされた大きいカ二がどーん!と真ん中に盛られ、そこにスパイス香るややスーピーなカレーがさーとかけられ、その上にふわとろっとたまごがとじられている。パンチ強いビジュアル。確かにうまそうだ。どうよ、とおらついた様子でニヤついている2人に苛立ちをおぼえつつ、いざ食べ始めるともう止まらない。めちゃうまい。くせになる。何も話せない。カニの殻がもどかしいいけど、どうでもいい。気が付けば3人が無言で「プーパッポンカリー」をがっついていた。食後「うめーよな」と先輩に言われ、「サイコーっすね」とここは完敗を認めざるを得なかった。同じ皿の「プーパッポンカリー」を食べた先輩、後輩とはその後も長ーい付き合いが続いている。
ヒロ さん
出張で訪れたフィレンツエで出会った辛いトマトソースのパスタ
初めてのイタリアは出張だった。数年に及ぶ難しいプロジェクトの締めくくりに、ピサ、フィレンツエと回った。最終日に同行した取引先の2人と食べたシンプルなパスタが記憶に刻まれている。唐辛子がぴりっと辛く、にんにくがきいたトマトソースにパセリがちらされたシンプルな見た目。アラビアータかと思ったが、カレッティエラというフィレンツエの名物らしい。見た目より奥深い味わいに舌鼓を打った。毎回打上げは仕事のご褒美だと思っているが、このパスタは格別だった。
よっちゃん さん
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母の誕生日、ココナッツパンにロールキャベツ
母は日本語を日本人と同じくらい上手に話すが、異国の出身で、出身地の料理が日本にないことをいつも嘆いていた。そのうちのひとつがココナッツパンだった。母の誕生日に、私が「誕生日は何が欲しい?」と聞くと、いつも「ココナッツのパンが食べたい」と答えていた。まだ幼かった私は、ココナッツパンなんて食べたことも無く、ネットで調べても日本語のレシピは見当たらなかった。その代わりに、私の大好物であるロールキャベツを母の誕生日に作って一緒に食べていた。そして、ついに私が15歳、高校一年生のとき、母の誕生日にココナッツのパンを作ってあげようと思い立った。ネットで調べても、日本語で書かれたレシピは見つからなかった。そこで、私は異言語で書かれたレシピを翻訳サイトを使ってちまちま翻訳しながらココナッツパンを焼いた。焼き上がりは自分が見てもなかなか上出来だったと思う。その夜、仕事から帰ってきた母は私の焼いたココナッツのパンを少し涙ぐみながら美味しそうに食べた。「この味だよ、𓏸𓏸(私の名前)これがずっと食べたかったの、本当に美味しいよ」と私を抱きしめた。父の分も含めて多めに焼いたつもりだったが、母は1人で2人分も食べた。母に褒められて嬉しかったのもあって、それから毎年母の誕生日にはココナッツパンとロールキャベツを作って誕生日を祝っている。今でこそもう慣れたココナッツパン作りは、当時の私にとっては大冒険だったことを覚えている。
くろすけ さん
コロッケの罠
運動会の日の私にとって一番の楽しみは昼ごはんでした。母が運動会の日に作ってくれるお弁当には、絶対に自家製コロッケ入っていました。その年も、母の自慢のコロッケが堂々と弁当箱の真ん中に鎮座していました。しかも今回は、何故かいつもよりひと回り大きく、見るからに"スペシャル"な雰囲気。「これを食べたら絶対勝てる!」とワクワクしながら、一口かじりました。ところが、その瞬間…まさかの「ガリッ」。ん?なんか硬いぞ?いつもホクホクのはずのコロッケが、まるで岩のように硬い!友達に「ちょっと噛んでみてよ」と渡してみると、彼女も苦笑いしながら「これ…岩じゃない?」と。全員大爆笑です。運動会後、家に帰って母に聞くと「揚げすぎちゃってさ、固まっちゃったのよ!」とケラケラ笑っていました。それ以来、あの「岩コロッケ」は、家族の中で伝説となり、毎年の運動会になると必ず話題に上る定番ネタになりました。
おうみ さん
でかいわ、おにぎり
運動会の時、うちのおにぎりだけ、異常にでかかった。中の具も、酢豚とか卵焼きとか、他の家庭とは一線を画していた。その時は少しはずかしさもあったけど、なんかがんばれって言われてる気がして、心強かった。親になった今、息子の運動会には、僕もとびきりでかいおにぎりを持たせている。
りくと さん
みそピー
給食にときどき出てきたみそピーは、味噌と砂糖とピーナッツを練り合わせた、少し甘くてしょっぱい食べ物で、小さなビニールのパッケージに入っていた。私は甘いとしょっぱいを同時に感じるのが嫌で、なんとなく苦手だった。それなのに、給食と言えば思い出されるみそピー。大人になった今なら、美味しく感じたりするのだろうか?
よく噛んで食べよう さん
つくってよかったな〜!と思わせてくれる満開笑顔
私は元々料理が得意なタイプでは決してないけれど、気づけば、もう7年ほど、家の料理当番として、子どものため、家族のためにごはんを作り続けている。料理が得意ではないといっても、食べること自体は好きなので、数あるレシピサイトを参照して、涼しい顔を気取りつつ料理に集中すれば、その日食べたいものを作ることができ、食べることができる。日々のごはん作りはそうして乗り切れるけれど、こどもの遠足の日のお弁当作りは時間との勝負だ。いつもよりも早起きをして、お弁当に入れられるくらいには冷ます時間も考慮して、2口コンロ(実際には3口あるが3口目がどうも使いづらい)を駆使して、脳内でシミュレーションしながら手を動かしていく。何度つくっても、同じ組み合わせも良くないだろうと新たなことに挑戦はしてしまう性格なので、毎回、勝負どきなことには変わりない。そうして何回も行事を乗り越えてきたが、初めてのお弁当のときには「時間が足りなくてフルーツだけ残しちゃった」なんてしょぼんとしながらお弁当箱を渡してきたこどもが、保育園の年長さんになってからは「みてみて!完食だよ」と空になったお弁当箱を見せてくれるようになった。そして、小学生にあがってから学童での夏休みの日々には「お弁当箱、一段じゃ足りないから2つに増やしてほしい」と不服そうに伝えてきた。ああ、この子はお弁当をもっと食べたいと思ってくれてるんだ……! 嬉しさと同時に、その成長に心が動いた瞬間でした。 それからは、一段のわっぱ弁当におかずを詰めて、スープジャーにはメインとなる炊き込みご飯やパスタ、オムライスを詰めて、小さなタッパーにフルーツを入れて持っていくようになりました。時に完食してこないこともあるけれど、持っていく朝、完成したお弁当を「見せて見せて〜」と覗いてくるこどものため、これからも時々、勝負のお弁当作りをがんばります!
おさつチップ さん
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友達のおばあちゃんの味噌おにぎり
小学生の頃いつも遊んでいた友人がいました。その家は農家でお米が沢山あり、おやつの時間になるといつも友人のおばあちゃんが味噌おにぎりを握ってくれていました。 毎回おやつは必ず味噌おにぎりなんだけど、食べ切れない位沢山握ってくれていつもお腹いっぱいになっていた。 実家に帰った時にふとその家の前を通って記憶が蘇り、親に聞くとずいぶん前にそのおばあちゃんは亡くなったそう。 遠い昔の事で写真に残しているわけもなく、おにぎりも丸だったのか三角だったのかも覚えていないし、おばあちゃんの顔さえ思い出せないけど、その味噌おにぎりの美味しさだけは忘れられない思い出です。
ながらぼ さん
やっぱ日本人
中学生の夏、短期留学に希望した友達と一緒にオーストラリアに行きました。初めての海外でちょっぴり不安もありながら好奇心で胸がいっぱいでした。オーストラリアに着いてからはホストファミリーと一緒に友達と暮らしながら留学生活を送っていました。 主食はお米ではなくじゃがいも、何もかもが大きくて量が多い!(笑)毎日今日の夜ご飯は何かとワクワクしていました。 そして、いよいよ日本に帰る日がやって来ました。嬉しくも寂しい気持ちを抱えながら飛行機で日本へ ホテルに泊まるためにみんなで夜ご飯をコンビニで買いに行きました。するとみんないっせいに同じ場所(笑) 大好きな「おにぎり」の場所へ やっぱり日本人だな〜
まんまるお米 さん
成人式で知った思い
私が小学生のころは、まだ、完全完食が目指される時代でした。給食もすべて食べるまで机に座らされて、食べ終わるまで、給食後の掃除の時間や5時間目が始まってからも給食のトレイを前にずっと座っているクラスメイトもいました。 ある時、いつもは元気で活発なクラスメイトが家庭環境によりこころが疲れていて、給食が食べられない、完食できないという時期がありました。 先生はいつものように、すべて食べるまで、給食時間を終わらせません。 何日かそんな日が続き、子供ながらにクラスメイトが辛そうな顔をしているとなんとかしないと…と思いました。 数日後から、私はこっそり、給食が配膳されたタイミングで、手をつける前に、そのクラスメイトのお皿から、給食を減らし、同じ班で食べている子達のお皿にササっと振り分けました。周りの子達の量を少しずつ増やし、食べられそうな量に調整したのです。 しばらくの間、先生が見ていない間にこっそりとそれを続けて、時間内に完食できるようにしたのです。 しばらく長い間、そんなことを続けていたと思います。でもそのうち、そのクラスメイトも様々な問題が解決したり、時間が解決したり、こころが安定してきたような気がしていました。 小学生のその頃、その後のことは、あまりよく覚えていませんが、ぼんやりと記憶の中にある思い出でした。 それから何年も経ち、成人式で私は当時のクラスメイトと再会しました。その時、当時についてお礼を言われたのです。 あの時、給食が食べられなくて苦痛だった日々を助けてくれてありがとう、と。辛い毎日に、大きな光であったと。 軽い気持ちでクラスメイトを助けていたことが、本人にとっては本当に忘れられない思い出で感謝していると言われ、なんだか照れ臭いような、でも過去の自分を褒めたいような、嬉しい気持ちになりました。 離れた場所で暮らしているので、そのクラスメイトに会うことはきっともうないのですが、私のこころにも大切な思い出になっています。
ゆきだるま さん